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​林間学校にて、初夏

作:丘めりこ

※マリカ様の顔が見えてないと不安になっちゃう香住くんの話。林間学校のその後の時間軸です。グッドエンドルート。

 

「なあ、二組の遠島さんの班のカレー、すごいらしいぜ!」
 日の沈みかけた森の中で、焚火の前に座り、鍋の中のカレーをくるりとかき混ぜていたら、手洗いに行っていたらしいクラスの男子の話し声が聞こえてきた。
 遠島、という名前にぴくりと反応する。渦中の人物は、つい先程まで訳あってオレと行動を共にしていた、隣のクラスの女子生徒だ。
 遠島マリカ。見た目は大人しいのに、その中身はなんでもやってみたがりの王様。血も幽霊も厭わない。食欲旺盛で生肉にまでかぶりつく。ありすぎる行動力のせいで幽霊に一時取り込まれてしまったが、なんやかんやで戻ってくることができた。……なんやかんやとボカしたのは、その、まあ、もう遠島に殴られたくないからな。
 オレたちM高校の一年生は、県境の山奥にあるキャンプサイトへ林間学校に来ていた。そして不幸なことに、水場を求めて林を彷徨い歩いていたオレと遠島は、林を歩いた先にあった廃屋に閉じ込められた。廃屋では、両親を殺された少女が鬼となって、家に来た男たちを殺していた。それは過去にあった事件だったが、少女の憎しみや罪は、消えることなく何度も繰り返されていた。そして少女の家に立ち入ったオレたちも例外ではなく、彼女の殺戮の対象にされた。命からがら、二階の格子窓をこじ開け廃屋から脱出することができたが、今でもまだ、彼女を救う手立てがなかったのか、考えては心がくすぶった。止まることのない殺戮という名の罪を犯しながら、たすけてと懇願する彼女に、春を見せてやる方法はなかったのかと。
 あの廃屋にいた時間は、何時間と長いように感じたけれど、実際には数十分ほどしか経っていなかったらしい。こちらに戻ってきたとき、夜の闇に包まれてたはずの廃屋から一転、まだ沈みきっていない夕焼けの空に、遠島と二人首を傾げた。
 班のクラスメイトからも、単に「遅い」と文句を言われただけだった。さらに言えば、水場で鍋に水を汲むというミッションもクリアできていないわけで、ひと言文句で済んだだけマシだったんだろう。肝心の水は、同じ班の倉田という男子が、迷子になった(という扱いらしい)オレの代わりに水場へ行き、きちんと汲んできてくれていた。
 しかし、現実でたかだか数十分だろうと、オレたちの体感では数時間あの廃屋で惨劇と闘って過ごしたのだ。それはもう、猛烈にお腹が空いていた。腹は正直だ。この空きっ腹にカレーの刺激臭。オレはほとんど泣きそうになりながら、女子に新たに与えられたカレーを煮込むというこの作業を、それはもう無心でやっていた。
 森の中の炊事場で班ごとに分かれて固まり、焚火を組んでカレーを作る。青々と茂った木々で見通しは悪いものの、遠島の班の様子も、ここから少しだけ見えた。
 遠島の班のカレーが話題になっているのは、戻ってきたときに遠島が暴れたことも原因のひとつだろう。体感では数時間廃屋で過ごしたオレと遠島は、てっきりもう皆カレーを食べ始めているころだろうと思って奥まった林からこのキャンプサイトまで戻ってきた。戻る最中の遠島の腹の虫の鳴きようといったらない。だというのに、カレーはまだオレたちが班を離れた時とそこまで変わらない様子で優雅に鍋の中で煮られている有様だ。そのカレーの姿にわなないた遠島が、悲しみと怒りのあまり呻き声をあげてオレの腕に噛み付いたのだ。その姿は遠島の班の人間だけでなく、周りにいた生徒のほとんどの視界にしっかりと映ってしまっていた。……まあ、食材に噛み付かなかっただけ、まだ遠島にも理性がのこっていたのかもしれないが。
 ひと煮立ちさせて、ようやくカレーが完成する。班のみんなの器に盛りつけていき、全員にカレーがいきわたったあと、余りの器を借りてそこにも少な目にカレーのルウを盛った。
「なあ、肉、ちょっと多めにもらっていい?」
「え? うん、いいよ。あたしらじゃ食べ切らないし」
「ありがと」
 班の女子に許可を貰って、ルウだけ盛った器に肉を多めに入れた。
 自分の班から離れ、遠島の班のほうに近づく。話題になっているこだわりのカレーを見にきたのか、班の人数より明らかに多い数の人だかりができていた。カレーを一目見にきたらしい生徒の、「学校行事でカレーにこんな力入れるやつ初めて見た」「ココ壱強化合宿だったっけ」という会話が聞こえてくる。
 人だかりには、遠島の姿はない。きょろきょろと辺りを見回すと、少し離れた位置で切り株に腰を下ろしてカレーを食べている遠島を見つけた。空腹を満たす勢いで、もくもくとカレーに食らいついている。オレは遠島に近づいて声をかけた。
「遠島」
 ヒマワリの種一杯頬張ったハムスターのように頬を膨らませ、遠島が顔をあげる。
「こだわりのカレー、どう?」
 ごくん、と飲み込んで、遠島が胸を張る。
「香住、これはものすごくうまいぞ」
「すげえな、オレの班のとこまで話題になってる」
「ああ、なんだか盛況みたいだな。一口くれ、というやつが多くて、いまはセルフサービスにしてある。香住も食っていいぞ」
「それ、自分たちの分は大丈夫なのかよ?」
「多めに作ったから大丈夫だ!」
「ふうん。ならまあ、いいけど」
 遠島が、なにかを思いついたかのように「あ」と短く声をあげ、一瞬目を輝かせた。嫌な予感がする……と思うと同時に、遠島がスプーンで自分の器からカレーをすくい、にこにこ笑いながら「はいっ!」とオレのほうへ差し出してくる。
「さあ食え、そして褒めろ」
「……えええ」
「なにしてる? はやく屈め」
「いや……」
 躊躇していると、遠島の顔がみるみるうちに不機嫌になっていく。……いやー、えー、まじか。日の傾いた森で薄暗く、キャンプサイトの端っこにいるとはいえ、隣には人だかり。スプーンをこちらに差し出して、いわゆる「あーん」の体勢で遠島がこちらを睨んでくる。こいつ、オレのことを変態だとか詰ってたくせに、こういうのは別にためらわねえんだよな。人に見られるとか、気にしないんだろうか。本人は無自覚でやっているだけにタチが悪い。はあ……王様の施しは、どうやら受けないとダメらしい。
「おい、いらないのか?」
「もらう、もらいます。タベタイデス」
「ふん、最初からそうやって素直になればいいものを」
 身を屈めて、ご満悦そうな王様が差し出すカレーにかぶりつく。自分の班のカレーを食べたときには感じなかったスパイシーな香りが鼻をついた。とろりとしたルウは口当たりがよく、ふんわりと甘い。コクがあって、口当たりが優しいから、自然ともう一口が欲しくなった。すごく、うまい。正直カレーなんてどう作ろうと大して変わらないだろ、と思っていたが、考えを改めないといけないみたいだ。
「うまいな、これ」
 素直に褒めると、遠島は嬉しそうに切り株の上でぴょんぴょん跳ねた。
「だろっ、だろ!?」
「おい、危ないから止まれ!」
 カレーがこぼれる!
 遠島は「えへへ」と笑いながらも跳ねるのをやめ、オレに褒められた自信作のカレーを頬張った。
 タマネギをじっくり炒めて、隠し味にチョコを入れて、ルウは二種類にして、それからコーヒーとかニンニクとかショウガとか、おいしいと噂の食材をいろいろ入れたらしい遠島のカレーには、しかし、肝心のものがない。
 廃屋にいたとき、遠島が持っていた国産の豚肉だ。そもそも、遠島は泥のついた豚肉を洗うために水場を探してあの廃屋へと迷い込んだ。残酷な事件に巻き込まれながらも、その肉への執着心で片時も離さずに持っていたはずなのに、二人で廃屋から脱出したときには、遠島はすでに肉を持っていなかった。
 だから、遠島の班のこだわりカレーには肉が入っていない。
 オレは遠島の隣にしゃがむと、「ほら」といって、ルウだけ盛ったほうの器を差し出した。
「お礼にこれ、やるよ」
「む。……肉!!」
 遠島の持っていた、ちょっといい肉よりかは質が落ちるだろうけど。でも、遠島のきらきらと輝きだした目を見るに、持ってきて正解だったようだ。
「い、いいのか」
 遠島が震える手で器を受け取った。
「おう、遠島のとこのカレーに比べたら、だいぶ普通の味だけど」
「……香住、おまえは宇宙で一番いいやつだな」
 世界から宇宙に格上げされた。……逆に宇宙って、ほかに比較対象いなくね?

 

   *****

 

 管理棟の多目的ホールで簡単なレクリエーションと、クラスごとのミーティングを終え、林間学校の一日目が終わる。廃屋から戻ってきたときは、のんきに林間学校の続きなんかしている場合じゃない、とすら思っていたけど、やってしまえばなんてことはない。学友や教師から何事もなく振舞われると、自分の意識も同じく何事もなかったかのように感じるから不思議だ。あの廃屋での出来事が、だんだんと遠いものになっていく。
 カレーを食べているとき。学友と談笑しているとき。友達と笑いあっている遠島の顔を視界にとらえたとき。
 そしてふと空を見上げて、あの廃屋の中庭で見た夜の景色を思い出す。たった数時間前までいた場所なのに、あれが本当にあったことなのか、それすらも不安になってくる。窓際にたたずみ、ひとり、こない春を待っている小さな少女の姿が、白いもやの中に霞んでいく。
 自分のとった選択に、後悔はない。けれど、あの少女の存在を、忘れたくもない。
 それはたぶん、遠島も同じだろう。
 チカ、と顔が照らされて、眩しさに手を顔の前にかざした。今日の宿泊場所であるバンガローにクラスの男子たちで向かっている途中だった。懐中電灯を持った同じクラスの田代がオレを照らし、「大丈夫かよ」と言う。
「……え? なにが」
「そこ、根っこ危ねえぞ」
「あ、ああ。悪い、助かった」
 田代が次いで足元を照らしてくれる。ちょうどオレの足の先には、うねるように広がった大き目の根っこが道に飛び出していた。そのまま歩けば転んでいたかもしれない。オレは田代に礼を言って大股で木の根を乗り越えた。
 足元を照らす懐中電灯に置いて行かれないよう、ついていく。森の夜は懐中電灯の光がないと、真っ暗でなにも見えない。そのうえ道がでこぼこしていて、足元を照らさないととてもじゃないが歩けなかった。
「暗~、山ん中ってこんな暗いもん?」
「夜中ぜってートイレ行きたくねえな」
「わかるー」
「オイ足踏んだやつ誰だよ」
 夕方、カレーを食べていたときより会話が多い気がするのは、暗くて周りが見えない不安からだろうか。クラスメイトの人影は捉えることができても、それが誰かまではわからない。誰か、全く知らない人間が紛れていても、気がつかないくらいに。
「着いたぜ」
 先頭を歩いていた誰かがそう言って、バンガローの鍵を開ける音が聞こえた。
 古い木製のバンガローだった。ギイ、と扉が軋みながら開く。懐中電灯を持っていたクラスメイトが壁を照らし、部屋の明かりらしきスイッチを見つけてカチリと押した。点灯した電球が不安定に揺めきながら部屋を照らす。
 消灯時刻まで時間がないので、手分けして布団を敷いていく。学校生活が始まってたかだか三ヶ月程度の仲なので、馴染みのない者同士、なんとなく他人行儀な会話になる。ぎこちないながら布団を敷き終え、それぞれ自分の寝床を確保していった。行動の早い者が真っ先にバンガローの端の布団にダイブし、みんながそのあとに続いていく。端のほうから布団は埋まり、最後に一番真ん中の布団が余った。真っ先に布団にダイブした田代が、壁際にいまだ突っ立っているオレに声をかける。
「香住、おまえボーッとしてるからもう真ん中の布団しか空いてないぜ。いいのかよ」
「……いや、別に、どこでも大丈夫」
 むしろ、なんでこういうとき、端っこは取り合いになるんだ?
「端って、なんか怖くね?」
 田代に聞く。こいつはクラスでもうるさく、人懐こい性格なので、誰とでもくだけた口調で話す。
「え? 絶対端のほうがいいじゃん。真ん中だと左右にいるやつの寝相が悪かったら一発でアウトだろ?」
「そういうもんか」
「なんだよー、香住は怖がりだなあ!」
「ちげーよ」
 オレは血が苦手なだけで、幽霊とか悪霊とかなら、結構平気だ。腐乱死体だって見つけても冷静でいられる自信がある。まあ、見ることなんてそうないだろうけど。
 消灯時間がきて、部屋の電気が消える。布団にもぐって数分、誰かが動き出し、どたんばたんと騒々しい音が鳴ったと思ったら、顔面に枕が飛んできた。こいつら、サイレントで枕投げ大会を勃発してやがった。
 飛んできた枕を適当に投げ返して、
「コラ! 消灯時間過ぎてんだぞ! 寝ろ!」
 と叫ぶ。暗闇の影たちが慌てたように動き、布団にもぐっていく。……なんか、ほぼ全員立ってたような気がするのは気のせいか。あと、小声で「……おかん」とか言ったやつ誰だ。こんなデカイ子どもを産んだ覚えはありません。

 

   *****

 

 目を開くと、そこは暗闇だった。つめたくて寂しい場所だ、と思っていたら、暗闇に石灯篭の火がぽっと燃え、顔を伏せた遠島がぬらりと現れた。遠島はこちらに背を向け、おさげを揺らしておぼつかない足取りで歩く。
「遠島」
 遠島は呼びかけに応じない。
 表情の見えない遠島の手には、血に濡れた斧が握りしめられていた。
「遠島」
 遠島は振り返らない。
 手に握った斧を振りかざし、暗闇に向かって下ろす。なにもないはずの暗闇がドガ、と衝撃で歪む。オレと遠島の距離は離れているばすなのに、腕が衝撃で震える。ビチャリ、と顔面に黒い血のようなものがかかった。
 ……まずはひとり……
 抑揚のない遠島の声が響く。
「……遠島ッ!」
 オレは叫ぶと、遠島のほうへ走り寄ろうとした。けれど、暗闇が質量をもってオレの足に絡みつき、もつれるようにその場に転ぶ。遠島が斧を持つ手を振りかざした。
「やめろ! 遠島!」
 違う。これは遠島じゃない。
 遠島は無事だった。取り憑かれたけど、帰ってきた。だから、これは遠島じゃないんだ。
 そうだろ、なあ。
 遠島が振り返る。髪がほどけ、ふわりと揺れながらそれはブロンドに変わった。
 ブロンドの髪の、着物を着た少女がこちらを向く。気がつくと遠島はオレの足元にうずくまるように倒れていた。髪に隠れた遠島の顔は不気味なほど白く、生気がない。
 たすけて。
 囁くような声で着物姿の少女が、ユエが、言う。ゆらり、ゆらりと揺れながらこちらに向かって歩いてくる。あの廃屋で、小さな格子窓を抜け出したときに見た光景が浮かび上がる。
 ごめん、と口に出そうとした。声は出なかった。口を開いたとたん、喉の奥にどろりとした泥のようなものが入り込んでくる感覚があって、息が苦しくなる。
「たすけて、くれなかった」
 少女が血塗れの斧を振り上げた。黒に塗りつぶされた、表情の見えない顔がこちらを見下ろしている。オレは咄嗟に体を動かした。そして、遠島に向かって少女が斧を

「うわあああ!!」
 勢いよく布団を剥いで飛び上がった。全力疾走でもしてきたかのように心臓がばくばく脈打っていて、体中にびっしょりと汗をかいていた。
 オレの叫び声に、周りで眠っていたクラスメイトたちがもぞりと起き上がる。誰かが懐中電灯のスイッチを入れて、暗がりを照らした。
「……遠島」
 懐中電灯の薄ぼんやりとした明かりを頼りに、周りを見回す。遠島がいない。当たり前のことなのに、目の前に遠島がいない事実に不安を感じた。彼女はいま、二組の女子が集まるバンガローにいる。いまはきっと静かに寝ている頃だろう。頭の中でそう整理しても、遠島の顔が無性に見たくなった。
「香住、大丈夫か?」
 隣の布団から、オレの名前が呼ばれた。
「すげえうなされてたけど」
「……悪い」
「いいけど、まじ大丈夫?」
 ぽつぽつとバンガローの中に小さな明かりが増えていく。異変を感じて起き上がったクラスメイトたちが各々枕元に置いてある懐中電灯をつけていた。中には携帯を開いているやつもいて、「いま何時?」というやり取りが聞こえてくる。時刻はまだ十時前で、眠りについてから三十分も経っていなかった。
 隣からタオルが差し出され、「汗、やばいよ」と指摘される。自分のカバンまでにじり寄る気力も湧かず、俺は素直に差し出されたタオルを受け取った。
「わりぃ、ありがとな」
「遠島さんって誰?」
「あー……いや……」
「名前、呼んでたけど。何回も」
「…………」
 夢の中で遠島の名前を呼んだ記憶はある。内容はぼやけてうまく思い出せないけど、遠島をこちらに連れ戻さなきゃ、と思って必死だった。でも、まさか口にまで出ていたとは。気恥ずかしくて、受け取ったタオルでオレは顔を覆った。
「なに? 香住、恋わずらい?」
「ちげえ」
 田代が懐中電灯を片手に寄ってきて、ちゃかす。オレはそれにタオル越しのくぐもった声で返した。
「もしかして怖い夢見た? 香住、やっぱ怖がりじゃん」
「違う!」
「なーなー、香住が怖いっていうから、みんな香住の布団で寝ようぜ」
「いや無理だろ!」
「いいからいいから。おーい、みんな集合!」
「ば、おい、なに……」
 みんなを呼びながら、田代がドサッとオレの隣に腰を下ろした。それから、カサついた手でオレの背中を叩いて、ゆっくりとさすった。そのときに初めてオレは自分が小刻みに震えていたことに気づいた。
「…………っ」
 わらわらと、完全に眠気が覚めた男どもが起き上がって部屋に円を描くように集まりだす。
「遠島サンって、カレーの班の子じゃね?」
「あー、三つ編みの?」
「二人とも迷子になって一緒に戻ってきたんだっけ」
「香住がおもしれーことになってるから遠島さんも呼ぼうぜ」
「田代ッ!」
「はいはーい」
 クラスの男子の中でも、イケメンの部類に入る篠原という男子が、意気揚々と手を挙げた。手には持ち込み禁止のはずの携帯電話を握っている。
「俺、女子の番号聞いたぜ。遠島さんって二組だろ」
「うお、まじか!」
「かけてみよーぜ!」
 盛り上がる男たちに、「おいおい」とオレは慌てた。このままだと、本気で電話をしかねない。
「もう寝てるんだから、やめよーぜ」
「いや、起きてるよ。いまメールしてたし」
「篠原おまえ、なんかゴソゴソしてんなと思ったら女子とメールしてたのかよ」
「イケメン滅びろ」
 ヤジが飛ぶなか、篠原が番号を押して携帯を耳に押し当てた。
「……なあ、夜遅いし、やめようって」
 しかし、そんなオレの制止する声を聞いてくれるやつは、もういない。
 篠原が口に人差し指をあてて、静かに、と合図すると、それまで騒がしかった部屋が一瞬で静まり返った。
「あ、出た。もしもし」
 ごくり、と誰かが唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえる。緊張しながら向こうの声に耳をそばだてる哀れな男たちのために、篠原が通話音をスピーカーに設定してくれた。
「うん、ごめんねいきなり。そうそう、篠原。うん、あのさ、そっちにいま遠島さんっている?」
 篠原の携帯から、メール相手の二組の女子生徒の声が鮮明に聞こえてくる。
『遠島さん、寝てるよ』
「香住が、……えっと、うちのクラスの男子で、遠島さんと話したいやつがいるんだよね」
「待て、いい、起こさなくていい」
 嫌な予感がして、今度こそ止めに入る。が、離れた距離からは通話の向こうの女子にまで届かず、スピーカーからは遠島を呼ぶ囁き声が虚しくも流れてきた。
『遠島さーん、遠島さん、起きてー』
「おい、篠原、やめさせてくれ……」
『きゃああ!』
 スピーカー越しの女子の悲鳴。
「え、なに」
「どうした」
 ざわつくなか、オレはひとり頭を抱えて唇を噛んだ。
『うわあああ! 噛む! この子噛むよ!!』
「か、噛む?」
「…………」
『ごめん! 立て込んでるから一旦切るよ! ひいっ! 誰か遠島さん押さえて……!』
 ブツ、と切れた携帯を、囲んでいた男たちがただ黙って見つめる。
 長い長い沈黙のあと、
「……完全にアマゾンの危険生物と現場リポーターだったな」
 と誰かが呟いた。言い得て妙ではあったが、もとはと言えば発端はオレだっただけに、なにも言えなかった。
 被害に遭った女子に、明日謝ろう。

 

   *****

 

 朝日の眩しさに目を開けた。シミのついた古い木目の天井が見える。寝起きはいい方なのに、瞼が重たい。
 二組の女子に電話をかけたあと、みんなに寝るように促したのは自分だったけれど、寝たらまたあの悪い夢を見るんじゃないかと不安になって、うまく寝付くことができなかった。浅い睡眠を繰り返し、何度も寝返りを打った。はやく朝になれと祈っていたのに、朝日の眩しさが寝不足の脳に刺さって燃えるように痛い。やけに息苦しいと思ったら、肩まで被った毛布のせいで、全身にびっしょりと汗をかいていた。夏場とはいえ、木々に囲まれた自然の中の夜は冷える。夜には手放せなかった薄くて重い毛布は、しかし朝は少しだけ暑かった。浅くため息をつきながら起き上がる。
「はよ、香住」
 せんべい布団を両手でかかえた田代に声をかけられる。ぼうっとしていて、返事が遅れた。バタバタとバンガローを動き回るクラスメイトたちが口々にオレに挨拶しては、自分の支度に戻る。見回すと、もうほとんどの人が布団を片付けて寝巻から学校指定のジャージに着替えているところだった。といっても、ほとんどの人が中学のジャージを寝巻にしていたので、とくに格好に代わり映えはない。
 のそのそと毛布を畳んでいると、布団を押し入れに片付け終えた田代がオレのところまで戻ってくる。バシ、といい音を立てて肩を叩き、隣にしゃがみ込んできた。
「おーい、あと十分で集合時間だぜ。まだ寝てんの?」
「……おー、起きてる」
「時間ないけど大丈夫かよ。なあって」
「…………」
「……香住って、寝起き、悪い?」
「いや、悪くないはず……」
 目頭に指先を押し当てて、ぎゅう、と強く瞬きを繰り返す。
「……あれ、田代、いま何時だっけ」
「えーと、六時五十分だな」
「七時に管理棟集合じゃなかったっけ」
「うん、あと十分」
「……時間、ないじゃん」
「……だからさっきからそう言ってるじゃん?」
 慌てて重たい布団を片付け服を着替えた。
 バンガローの鍵を受け取り、最後に出た自分が施錠する。鍵をジャージのポケットに仕舞い、急ぎ足で朝の集合場所へと向かった。
 管理棟にある食堂で朝食をとったあと、生徒たちは多目的ホールへと集められた。
 管理棟の多目的ホールは学校の体育館のような作りになっている。そこに林間学校に参加している生徒全員が集められ、朝の点呼と一日の流れの説明などを聞く。クラスごとに二列に並び、体育座りをして座る。あくびをかみ殺している生徒がほとんどのところを見ると、就寝時間を守ったクラスはほとんどなさそうだ。昨日の夜は自分のせいでクラスメイトや他クラスの女子を起こしてしまった手前、なんとなくあくびをするのもためらわれて、幾度となくくる眠気を、手の甲をつねってやり過ごした。
 そうやって注意が他に向いているうちはなんともなかったのに、オリエンテーションを終え、遠島の姿を後ろから見た瞬間に、心臓がどくりと嫌なふうに跳ねた。
 オレはゆっくりと遠島に近づくと、声をかけるよりも先にその肩を掴んで引き寄せていた。
 遠島の肩が思いのほか華奢で、少しだけ驚いた。
「……なんだ、香住じゃないか」
 遠島の目がオレを見る。
 生きている目だ。その目はまぎれもなく遠島のもので、オレはほっと息をついた。
「どうした、なにか用か」
「……いや、別に」
「そうか」
「…………」
「…………」
 しばらく、ただ見つめ合うだけの、なにもない時間が過ぎる。
「……遠島、ちゃんと眠れた?」
「ああ、なにも問題ないぞ! ぐっすりだ。そういうおまえはどうなんだ」
「オレはまあ、ぼちぼち」
「そうか?……顔色が悪くないか?」
「……気のせいじゃね?」
 なんでこういうときだけ鋭いかな。
 遠島と一緒にいた女子生徒が、遠島の肩をつつき、「誰?」と聞く。遠島に答えさせるとろくなことを言わない気がして、先に口を開いて自己紹介する。それから、昨日の夜のことを謝っておいた。遠島と一緒にいるなら二組の生徒だろうし、たとえ電話に出たのが彼女ではなくとも、だいぶ騒がしくしてしまったので迷惑は被っただろう。当人である遠島は「なんのことだ?」と首を傾げていた。
 今日の午前は、班に分かれて山をハイキングする。そろそろ班のメンバーで固まっていないといけない時間だった。
「香住、はやく戻れ。班のみんなが待ってるぞ」
「……おー」
「……香住?」
 遠島が班のメンバーに呼ばれてオレに背を向けた。その遠島の後ろ姿に、廃屋でユエに憑りつかれた姿が重なった。ふ、と手足から力が抜ける。よろめいて、なんとかその場に踏みとどまる。
「遠島」
 ああ、最近こんなふうに名前を呼んだな。
 遠島が振り返る。
「香住、おまえ……」
 遠島がオレをじっと見つめ、ふいに笑った。
「私が恋しいのか?」
 ああ、ふつうだったら腹立たしいくらいの自信たっぷりなその笑顔が、いまだけすげえ安心するよ。
「うん」
 素直にうなずく。オレの反応が意外だったのか、遠島が虚を突かれた表情をする。それから、目をぎゅっとつむり、こめかみに手をあてて頭を抱えた。
「う~、元気がなくて素直な香住は気持ち悪いぞ……」
 失礼な。
 多目的ホールの入り口から、オレと遠島を呼ぶ声がする。周りを見ると、ホールの真ん中に残っているのはオレと遠島と、遠島と一緒にいた女子生徒だけになっていた。
「班に戻るか。呼び止めて悪かったな」
「構わないぞ。それより香住、具合が悪いなら無理するな。朝はちゃんと食べたのか?」
「食べた食べた」
「むう。本当に?」
「おー、もう腹いっぱい」
 言いながら入り口に向かう。遠島と分かれようとすると、しかし、また気が遠のく感覚がして、ほとんど反射的に遠島の腕を掴んでしまう。
 遠島が今度こそ訝し気にオレをじろりと睨み、「……香住」とオレの名前を呟いた。
「おまえ、やっぱり変だぞ」
「あー……みたいね。オレもそう思う」
「のんきに言っている場合か!」
「って言われても。オレもよくわかんねーけど、なんか、遠島の顔見えてないと不安になるんだよ」
「ふうむ」
 遠島が腕組みをしてオレの全身をじろじろ眺めた。
 なんだか周りが騒がしい気がして見回してみれば、いつのまにか班のメンバーをはじめとするクラスの人間がオレたちを取り囲んでいた。見覚えのない生徒は恐らく、遠島のクラスメイトだろう。男どもは口元にうっすら笑みを浮かべて、女子たちは顔を赤くして手を口に当てている。きゃあきゃあと黄色い声をあげて女の子同士で肩をバシバシと叩き合っていた。
「えっ、なに?」
「さあ……?」
 遠島が首を傾げる。
 ざわざわとした声の中に、
「カップル成立」
「カップル成立だな」
 という不本意な会話が聞こえたが、無視した。
 班のメンバーが側まできて、オレの肩を叩く。男子はグッと親指をたて、女子は訳知り顔でうんうんと頷いた。
「香住、おまえもう遠島さんの班で行動してこいよ。センセイは説得しとくからさ」
「いやいや、なに言ってんの。遠島の班って、別クラスじゃん」
「いいっていいって。こっちは適当にやっとくし」
「いやでも……」
「香住くん、遠島さんの腕離せてないじゃん。うちの班に戻ってくるの、無理じゃない?」
 同じ班の佐々木が言う。昨日オレにアルミ鍋を持たせ、あっちのほうに水場があるから行ってきて、と適当な指示を出した女子生徒だ。
 佐々木はオレと遠島を交互に指差す。
「昨日、一緒に帰ってきたよね。二人でなにか怖いものでも見た?」
 それからごく真面目な顔つきで「山って、出るって言うよね」と続ける。オレはそれに曖昧な笑みで返し、遠島は腕組みをしてフンと鼻を鳴らした。

 

   *****

 

 林間学校二日目の午前中は、山の決められたコースをハイキングすることになっていた。班ごとにまとまり、軽量の荷物を持って頂上を目指す。バンガローに置いてきた泊まり用のでかい鞄とは別に、簡単な荷物だけ入れるナップサックを持ってきていた。そこに、水筒、虫除けスプレー、絆創膏などの救急セット、地図や決まり事の書かれた小冊子、それから朝管理棟で手渡された弁当箱を入れた。弁当の中身はサンドイッチで、事前にクラスのミーティングで好きな具を選んである。弁当は食べたあとすぐ捨てられるよう、使い捨ての紙で出来た簡易的なものになっていて、とても軽い。
 ナップサックを背負って山道を歩く。登りの山道はそこまで急ではなく、ハイキングコースも初心者向けのほどよく整地された道だった。
「香住、少しでも遅れたら置いていくぞ」
「だから、オレはそこまでか弱くねえンだよ」
 右手に持つ木の枝がブンと揺れ、手から外れそうになって慌てて強く握る。オレの隣では、枝を揺らした犯人が慌てて握ったオレの手をじっと見ていた。かと思うと、「ふふふ」と笑う。機嫌がいいのは良いことだが、行動が予測できなくて恐ろしい。
「犬の散歩みたいで、楽しいな?」
「…………」
 その場合どっちが犬でどっちが飼い主か、小一時間ほど議論してもいいか?
 ハイキングコースをてくてくと歩くオレと遠島の間には、一本の枝がある。枝の両端をオレと遠島でそれぞれ掴み、それが首輪を繋ぐリードのようになっていた。
 結局遠島の腕を離すことの出来なかったオレは、特別に遠島の班に混ざって出発することになった。意外と先生はオレが班を離れることに寛容で、香住がワガママ言うなんて珍しいな、という軽いノリで許可されてしまった。日頃の行いもあるのかもしれない。厳密にいうとオレがワガママを言ったわけではないのだが、先生は生暖かい目でオレと遠島を見て、「青春は一度きりだからなあ」とどこか遠くを見て頷いていた。どう見ても勘違いされているが、遠島の腕を離さないオレが否定しても説得力のカケラもないので黙っていた。
「手でも繋ぐか?」
 遠島の腕を掴んで離さないオレに、彼女が言った。
「いやあ……」
「なんなんだ? 繋ぐのか? 繋がないのか? べつに私はこのままでもいいけどな」
「いや、山登りで腕掴んでたら、危ないだろ」
 と言いつつオレは遠島から手を離す。しかし、また数秒後には無意識に遠島の手首を掴んでいた。そんなオレを、遠島の班のメンバーが戸惑い気味に見ている。
「すまないな、生まれたてのヒナ鳥のようだろう。香住は昨日いろいろ可哀想な目にあって、大変だったんだ。しばらく私が面倒を見るから、気にしないでくれ」
 遠島が胸を張って班のメンバーに適当なことを言っている。否定しようと口を開いたが、一瞬顔を出した冷静な自分が、己と遠島の、否定しても全く説得力のないこの状態を俯瞰で見てしまったために、静かに口を閉じた。
「ほら、香住」
 遠島が「ん」とオレのほうに手のひらを出した。
「……なに、この手」
「手を繋ぐんだろ」
「あー……」
 オレは遠島を無視して地面を見回した。目当てのものはすぐに見つかり、ちょうどいい長さのそれを拾い上げる。握ったときの太さも程よいその枝を、遠島の手のひらにポンと置いた。
「……なんだ、これは」
「木の枝」
「なんだこれは」
「そっちの端っこ持って。オレはこっち」
「オイ。なんなんだこれは!」
「だから、木の枝だって」
「そんなことを聞いてるんじゃないぞ!」
 拾ってきた木の枝を、オレと遠島でそれぞれ端を持つ。木の枝を挟んで横並びになるほうが、手を繋ぐよりずっとマシだ。
「よし、これでいいな」
 ひとり頷いていると、遠島が木の枝をブンと振った。力のかかった木の枝に引っ張られ、オレはたたらを踏んだ。
「っ、コラ! 振り回すな!」
「ふん」
 数分歩くと、その状態にも慣れてきた。初夏の山は涼しく、ときおり吹き抜ける風が気持ちいい。よく空気が美味しいっていうけど、まさにいま吸い込んでいる空気が、美味しい空気なんだろうな。という話を隣で枝をぶらぶらさせている遠島にしたら、おもむろに舌をべえと出して空中を舐め、ガッカリとした顔で「味がしない」と不平を漏れた。
「ここらへんで休憩しよう」
 遠島の班の班長が、ハイキングコースの開けた道で号令をかけた。脇に置かれている落ち葉まみれのベンチに座り、それぞれナップサックから取り出した水筒の水を飲む。オレたちも持っていた枝をそこら辺に放り投げ、ベンチの落ち葉を取り払って座った。
 水を飲んでいると、遠島の班の女子たちが、ソワソワと落ち着かない様子でオレたちを取り囲んだ。「あのぉー……」と控えめに声をあけてくる。
「お二人は付き合っているんですか?」
 げほ、とむせた。
「つっ……きあってないデス」
「え……遠島さん、彼女じゃないんですか?」
「ないです、違いマス」
「じゃあ、親ですか?」
 じゃあってなんだ。親なわけあるか。
「親子に見える?」
 オレは隣で静かに水を飲んでいる遠島と自分を交互に指差して聞いた。
「見えないですね……」
「だよな」
 班の女子たちは「なーんだ」と肩透かしを食らったかのように露骨にガッカリしていた。
 女子たちが去ったあと、オレは不自然なほど静かにしている遠島が気になって、そっと隣を窺った。
「今日の朝も聞かれたぞ。夜に電話がどうとか言っていたな。一組に彼氏がいるのかと問い詰められたが、もしかして香住のことだったのか?」
 あきらかに夜にかけた電話のせいだろう。オレは居た堪れなくなって、遠島から視線を逸らした。
「だが安心しろ。ちゃんと言っておいてやったならな。香住は彼氏じゃない。そもそも、香住はお姫サマだからな、とな」
「は……ハア!? お姫サマッ!?」
 思わず素っ頓狂な声をあげてオレはベンチから立ち上がった。転げ落ちなかっただけ、褒められてもいいくらいだ。当の遠島はそんなオレの態度に、きょとんと目を丸くしてこちらを見上げている。
「なにか間違っているか?」
「なにもかも間違ってんだよ!! お姫サマってなんだよ!? オマエはオレが女の子に見えるのか!?」
 遠島がゆっくりとオレの頭からつま先まで視線を動かした。
「なんだ、お姫サマでいいじゃないか。可愛らしいだろう。まあ、いまはどちらかというと生まれたてのヒナ鳥だけどな」
「なんにもよくねえー!!」
 オレの絶叫に、木々にとまっていた小鳥たちが驚いたように一斉に飛び立った。

 休憩が終わり、遠島の班とオレはハイキングを再開した。そこら辺に放り投げた枝をもう一度拾い上げ、遠島に片側を持たす。
 相変わらずほどほどに整備された、山登り初心者に優しいなだらかな道を歩く。ときおり木々の合間から虫の鳴き声が聞こえてきて、そのたびに遠島が立ち止まるから、班のメンバーに置いていかれそうになりながら、なんとか遠島と繋がっている枝を引っ張ってついていく。
「なあ、香住」
「なに?」
「おまえ、私に黙ってまたなにか難しいことを考えているだろ」
 前を行く班のメンバーは、ぐねぐねと細く曲がった道の先へ進んでしまい、姿が見えない。生い茂った葉が太陽の光を遮って、オレたちふたりに影を落としている。
「おまえはまだ、後悔している。だから、私から離れるのが怖いんだ。違うか?」
 枝を握る手に、思わず力が入る。助けることのできなかった少女。廃屋の惨劇のなか置き去りにしてきてしまった少女が、表情の見えない瞳でオレを責め立てる。……けれど、オレが本当に怖いのは。
「……オレは、後悔してねえよ」
 あのとき。ユエと遠島を天秤にかけて、どちらかしか助かることの出来なかったあの状況で、遠島の手を取ったことに後悔はない。ユエを助けられなかった自分を責めながら、それでもオレは、遠島のいつもと変わらない姿に安堵した。ユエを救えなかったことより、遠島がいなくなることのほうが怖かった。遠島があのまま戻ってこなかったら、とそればかり考えて、怖かったんだ。……ごめんな。
「香住」
 遠島がオレを呼んだ。
「なあ、香住」
 遠島が枝をくん、と引いた。
「なにか匂いがしないか?」
 唐突に、遠島が周りを見渡してそう言った。くんくん、と鼻をひくつかせ、道の脇へ一歩近づく。オレも同じように匂いを嗅いでみたが、とくになにも感じなかった。
「なんもしないけど」
「いや、するな。こっちだ」
「あ、オイ! 勝手に……」
 オレと遠島を繋いでいた枝を放り出し、遠島がオレの腕を掴む。そしてハイキングコースの道を外れ、木々の生い茂った斜面に飛び出していった。
「ちょ、ちょっと、遠島……!」
 制止の声をあげるが、遠島は止まってくれない。ザザ、と砂煙をあげ、あっという間に斜面を下り終えてしまった。もちろん、班のメンバーはハイキングコースに置いてきぼりだ。もしかしたら、オレと遠島がいなくなったことも気づかれていないかもしれない。
「見ろ、香住!」
 遠島が声をあげて手を広げる。そこには。

 ――春を待つの、ユエ。
 ――そうして春がきたら、一緒に。

 この夏場に似合わない、薄く色づく梅の花。細くしなやかな枝が二つ、寄り添うようにして空に向かって伸びている。ザア、と風が木々を揺らすなかで、その二つの枝だけが、穏やかに、そして凛としてその場に佇んでいた。

 ――……一緒に、本物の梅を見に行こうね。

「春がきたんだ」
 ぽつりと遠島がつぶやいた。
「ここで、待っているのか」
 梅の木に近づくと、ふわりと花の匂いが香ってきた。
 オレは遠島の手を握った。手首に親指をあてて、とくん、とくん、と規則的に流れる音を指先に感じて息を吐いた。しばらくじっと梅の花を見つめていた遠島が、動こうとしないオレのほうへ振り返り、オレに握られた腕を一瞥する。
「……なんだ、香住」
「べつに。脈測ってるだけ」
「私は生きているぞ」
「知ってる」
 行くぞ、と遠島がオレに背を向けた。ああ、遠島だ。この背中は遠島のものだ。オレはもうその堂々とした背中を、見間違うことはないだろう。オレはそっと遠島から手を離した。
「あいつはもう大丈夫だ。待っている人がいるからな」
 初夏。
 季節外れに狂い咲く、梅の花が揺れている。
 ここで、この場所で、春を夢見る少女を待ちながら。
 オレは枝の伸びた空を見上げ、いつかその罪が許される日が来ることを、ただ祈った。

 

   

 

■職員室にて /一年二組 担任八木

 職員室の机で、八木は教室で集めてきたプリントを広げた。プリントはクラスの学生から集めてきた林間学校の感想文たちだ。林間学校の思い出として、簡単な冊子としてまとめ、生徒に配ることになっている。一度スキャンを終えたそのプリントにひとつひとつ目を通しながら、八木はポットから注いだインスタントコーヒーを喉に流し込んだ。
「八木先生、林間学校ですか」
 後ろから、教頭が八木の手元を覗き込んで聞いた。八木は頷くと、教頭にも見やすいよう椅子を少しだけ横にずらした。
「今年も天気がよくて良かったですね」
「はい、毎年天気には恵まれているんですよね。生徒たちも真面目に取り組んでくれて、なによりですね」
「おや……梅ですか」
 教頭がふと一枚のプリントに目を止めた。そこには、決してうまいとは言えない荒いタッチで、枝とそこに咲く花の絵が描かれている。ただひと言、きれいだった、とコメントが添えられているその感想文は、おさげがよく似合う、遠島マリカという大人しい生徒のものだった。
「よく梅だとわかりましたね」
「ええ、つぼみにね、軸がないでしょう。桜や桃と違って、梅にはつぼみに軸がないですからね。花弁も丸みがある。しかし、この時期に咲くんですか。珍しいですね」
 そう言って教頭が首を傾げた。無理もない。梅は春先に花を咲かせるもので、とっくに時期を過ぎている。八木は苦笑して頷いた。
「そうなんですよ。不思議に思って施設にも電話して聞いてみたんです。そうしたら、施設の方も不思議に思っていましたよ。あのキャンプサイトは管理がしっかり行き届いていて、どんなに茂った木立の中でも、数日に一度は点検に入るんだそうです。その管理人の方が言うには、あのキャンプサイトには、どこにも梅の木なんか植わっていないそうです。だから、梅の花なんて、咲くはずもないんですよ。おかしいですね。彼女はいったい、なにを見たんでしょうか」

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