初めましてを始めよう
作:チカコ
「香住くんって、遠島さんとどれくらい仲が良いの?」
人気のない放課後の廊下で、香住にそう声をかけてきたのは同じクラスの女子の山本だった。
「……遠島?」
いぶかしげに訊き返すと、彼女は大きくうなずいた。
「うん。遠島さん。隣のクラスの。香住くん、しょっちゅう一緒にいるでしょ?」
「まあ、いるっちゃいるのかな……」
特に意識しているわけではないが、林間学校以来、何かと遠島と接する機会が増えていた。ある意味濃密ともいえる時間をともに過ごした香住は、変人遠島の扱いをこの学校の中では誰よりも心得ているといえる。……そのせいか、最近は『遠島お世話係』として周囲、特に彼女のクラスの面々からそう認識されていた。
(別にそれは望んじゃいないんだけどな……)
思わず遠い目になった香住の胸中など知るよしもないであろう、山本は小さな声で言った。
「……本当は彼女なんじゃないかって、言ってるひともいるよ」
「か……はあ!? ち、違う違う!」
「そうなの?」
とっさに慌てて否定すると、山本はなぜかほっとした表情を見せた。
「俺と遠島だぞ? そんな、山本さんが気にするような関係じゃないから!」
そもそも香住と山本の距離感といえば、喋るには喋るが当たり障りのない会話だけ、という感じだ。お互いの交友関係について深く突っ込むほどの仲ではない。
「それに、俺たちがどういう関係でもあんまり周りには影響がないっつーか……」
「あるよ」
「え?」
「あるの」
もう一度言って耳を赤くした彼女は、香住に向かってその言葉をはっきりと口にした。
「私、香住くんのことが好きだから」
*
山本から告白された翌日の放課後、香住と遠島は公園のベンチで肩を並べていた。特に会話らしい会話もなく、香住はなんとなしに前を見つめながら、さっき買った駄菓子をぼりぼりとかじる。特に約束しているわけではないが、ふたりで一緒に帰るのがいつのまにか日常となっていた。これもお世話係の一環みたいなもの、と香住自身は思っていたのだが――、
(確かに、こうしていればただのカップルにしか見えないのかもしれないな……)
昨日、山本から言われたことが頭の中をぐるぐると巡る。そんなつもりは露ほどもなかったのだが、男女がセットで行動するイコール恋愛関係と結びつけられてしまうのは、学校という狭い世界の中では仕方のないことかもしれない。
そうはいっても事実は違うし、今この日常をどうこうするつもりもないのだが。
「なあ香住」
「うん?」
名前を呼ばれ、ぼうっと生返事をする香住に遠島が尋ねた。
「香住は恋をしたことがあるのか?」
「ぶっ」
いつもの彼女からは想像もつかない突然の質問に、香住は思わず咳き込んでしまう。「汚いぞ」とじとっとした目で遠島が見てくるが、いやいや全くそれどころではない。なぜ遠島がそんな話を、という驚きもあるが、昨日の今日であるからどうもこの手の話題には敏感になってしまう。
「な、何だよいきなり……」
「あるのか? ないのか?」
なぜか遠島はわりかし強い口調で詰め寄ってくる。悪いことなど何もしていないはずなのだが、いつもと違う遠島の剣幕に、香住は少しばかりおののいてしまった。
「ない、わけじゃないけど……」
「じゃあ、あるんだな?」
「ま、まあ……小学校の時とか、中学の時とか……片思いだったし結局何もしてないけど……って、本当に何だよこの質問は」
遠島の口から繰り出される突拍子のない発言はいつものことだが、いつにもまして突拍子がない。さっきまでかじっていた駄菓子の味も忘れてしまうほどに。
「香住はそういうのに興味がないのかと思って。だって、昨日そんな感じのことを言ってたから。ほら、同じクラスの、や……や……やま……みたいな風に呼んでた……」
「山本さんだろ……って、な、なんで知ってるんだよ!?」
「たまたま通りがかったからだ」
「そ、そうなのか……」
花より団子を体現しているような遠島がどうしていきなり恋の話など持ちかけてきたのか、ようやく合点がいった。
――香住くんのことが、好きだから。
昨日の告白を思い出す。年の割に落ち着いているとはいえ、香住も健全な高校生男子だ。「とうとう自分にも高校生らしいイベントが……」と一瞬浮かれたことは否定できない。
同じクラスの男どもと集まれば、誰がかわいいやら彼女だったらいいなとか、そんな話題は当たり前のように出てくる。香住自身は積極的に発言しているわけではないが、いつのまにか会話の輪の中に入れられていることはしばしばである。その中でも山本の名前はよく出てきていた。もちろん、かわいい、という方向でだ。
(山本さんと付き合えたら、きっと楽しいんだろうなあ)
香住は決して愛想が良いとはいえない顔つきであるし、特別山本に親切にしていた覚えもない。だというのに、そんな自分を好きだと言ってくれたのだ。彼女と付き合えたら、明るい高校生活の幕開けになることは目に見えている。
だというのになぜだろう、彼女から告白を受け一番に脳裏をよぎったのは、いつも隣でぼけっとしたり突っ走ったりしている遠島の顔だった。
付き合うということがどういうことなのか、高校生にもなってさすがに知らないわけがない。山本が彼女になれば、こうやって自分の隣に座るのは遠島ではなくなるだろう。彼女を優先するとなれば、特に何かあるわけでもなく遠島と一緒にいる時間もやがては少なくなって、まるでそんなものなかったかのように新しい日常がかたちづくられていくのだ。
それは、なんだかさみしい気がする。
そう思ったのと同時に、唇は勝手に言葉を紡いでいた。
――ごめん。今はそういうの、考えられない。
「……で、俺が山本さんをフるのを見て、こいつは恋も知らない血も涙もないやつなんじゃないかと思ったのか?」
「何でそう急に卑屈になるんだ」
即座に冷静なツッコミが入る。
そして遠島は、憂いを帯びたような顔になりふっと目を伏せた。普段はあまり見せない表情に、香住は少しドキリとする。
「わからない。別にそのヤマモトっていう女子のことが嫌いな訳でも何でもないのに、香住に告白してるのを見たらなぜかモヤモヤしたし、香住が断ったのを聞いたらそれがスーッと消えていったんだ」
「…………」
「なんでだ?」
「な、なんでって言われても……」
これまで遠島の爆弾発言に何度も動揺させられてきたが、もはや日常茶飯事なので数えることはいつしかやめてしまっていた――が、これは今までで一番爆弾かもしれない。まさか、遠島に限ってそんなことは、とひどく動揺する胸のうちを悟られないよう、香住は平静を装った。
「たとえばさ」
「うん」
「遠島がすごく仲良くしてる友達がいるとするだろ? そいつに急に恋人ができたら自分とあんまり遊んでくれなくなるかもって考えたら、モヤッとしないか?」
「ううん……? 別に、しない」
「ああ、そう……」
遠島らしい、単純明快さだ。
「……それか、その友達に恋愛感情を持ってるからとか」
言ってから、香住は小さく首を振った。
(何言ってるんだよ、俺は……)
いくら遠島が特大の爆弾を落としてきたとはいえ、結局はあの遠島だ。香住のことをカレーにクッキーが入っているくらい好きとか言い出すやつなのだ。恋愛感情につながるとはとうてい思えない。
いつか――今は全く想像がつかないが――遠島にも好きなやつができるのだろうか。そうしたらもう「香住!」と好き勝手に引っ張っていかれることもなくなるのだろうか。
(その時、さみしいのはきっと俺だけだ)
遠島を理由に身に余るような告白を断ってしまったくらいなのだ。一瞬のセンチメンタルを振り切るように「なんてな」と冗談めかしてみる。
しかし、言い切る前に、マリカの目が静かに見開かれていることに香住は気づいた。
「じゃあそうかもしれないな」
「そ、そうって……?」
「私は、香住が好きなのかもしれない」
「――な」
あっけらかんとのたまった遠島に、香住の体はぴしりと固まってしまった。友情の例えも出したというのに、どうしてそちらに食いついてしまうのか。内心頭を抱える香住であったが、そんな彼の苦悶など一ミリも気づいていない遠島はやけに晴れ晴れとした顔をしていた。
「はースッキリした! そうか、私は香住が好きだったのか。なるほどな」
「俺が言うのもどうかと思うけど、何かこうもっと……照れとか葛藤とか、そういうのはないのか……?」
「もちろん驚いてるぞ。けどそれより、モヤモヤしたままの方がよっぽど気持ち悪いし、大問題だ」
「そういうもんか!?」
遠島らしいといえばらしいのかもしれないが、一応、告白……らしきものをされているのだ。だというのに、ムードもへったくれもなくて体の力が抜けてしまう。本当に意味がわかっているのだろうか。
「なあ、遠島。俺が言ったからって鵜呑みにしなくていいんだぞ? ちゃんと自分の本当の気持ちを大切にするべきで……」
そう言うと、遠島はあからさまにムッとした表情になり口をとがらせた。
「私の気持ちが嘘か本当かは香住が決めることじゃない。私が決めることだろう? 香住だって、勝手に私に決めつけられるのは嫌じゃないのか」
それはいつになく真剣な声色だった。食べ物絡み以外で強い感情を出す遠島は珍しく、香住は戸惑いを覚える。
いつも斜め上の発言ばかり口にするからつい忘れてしまいそうになるが、遠島は遠島の理屈で考えて、意志を持って行動しているのだ。それがたとえ、香住にとってはすっとんきょうな発想であったとしても。
「……そうだな。遠島の言うとおりだ」
ごめん。謝ると、遠島はうんうんうなずいた。そして「よし。それじゃあ香住」と、ベンチから立ち上がり、香住を見下ろして満面の笑みでこう言った。
「自己紹介をしよう」
「…………は?」
やっぱり、遠島はぶっ飛んでいる。
「遠島、おまえ、その、俺のこと……好きなんだよ……な?」
「そうだ」
「自己紹介、今関係ある?」
「大アリに決まってるだろう」
当然だとでも言いたげに、遠島は胸を張った。
「今度は私の好きなやつとして、これから新しく香住を知りたいんだ。だから、自己紹介をしよう」
「…………」
まっすぐな目で素直に言われてしまったら、もう、返す言葉も思いつかない。
あの林間学校から、遠島という人間はいつも香住のそばにいた。ただの友達というには近く、けれどそれ以上の何があるのかと言われれば、何もない。
だけど、少なくともこの学校の中では誰よりも遠島のことを見てきたと言っても過言ではないだろう。食い意地が張って、時たま暴走機関車のように猪突猛進で、それにいつも振り回されて――そして馬鹿が付くほど正直で、自分に嘘をついたりしない。
それを知る香住だからこそ、彼女の「好き」に少なからず重みを感じてしまう。
「遠島ってさ……ずるいよなぁ、色々……」
ベンチから腰を上げながらつぶやいた香住の声が、彼女に聴こえたかどうかはわからない。わからないけれど、向き合ったその笑顔はいつになく柔らかなものに見えた。
「遠島マリカだ。好きなことは食べることで、好きなやつは香住だ。……多分」
「多分かよ」
やっぱりどうあがいても緊張感のないやつだ。はあ、とため息をつき、香住は遠島の目を見返した。
「……香住ヨウスケ。今さら言うことなんて特にないけど……そうだな」
香住はゆっくりと口を開いた。
「俺も、遠島が好きなんだと思う。……多分」
そうして口にしたその言葉は、まるで昔から何度も唱えてきたおまじないのように不思議と胸に馴染んだ。それがなんだかおかしくて、香住は困ったような笑みを浮かべた。
その時の遠島の表情を知るのは、香住ただひとりだけである。